無題


ドアを開けると、彼女の歌声が聞こえてきた。

そこは真っ暗にライトを落とした階段状の教室だった。
学生達は、思い思いに散らばって座り、けだるそうにタバコの煙を
くゆらせながら、流れる音楽に体を揺らしていた。

僕は暗闇に目が慣れるまで、しばらく戸口に立って周囲を見渡し、
彼女の声に吸い寄せられるように階段教室を一段、一段、下に降りた。

彼女は教壇のあるステージの端にそっぽを向いて腰掛けていたので、
僕の方から彼女の顔を窺い見ることはできなかった。

教室のまん中あたりを通りかかると、白い紙が差し出され、
「よう。名簿に名前書いていけよ。名前書いたからって入部しなきゃ
いけないってわけじゃないから。」と、声を掛けられた。
僕は丁寧に頭を下げて、黙って名前を書いた。
「楽器、持ってきたなんなら、好きにセッションしていけよな。」
と、白い紙を差し出した主は親し気に言い、
再び満足そうに視線をステージに戻して体を揺らし始めた。

彼女の歌声にかき消されるように、ベースが調子っぱずれのリズムで
ブツブツと鳴っている。

僕は夢遊病者のようにベースをケースから取り出して、無言でステージ
に上がり、調子ぱっずれのベーシストに表情だけで交代を促した。
ベースが途切れ、怪訝そうにこちらを振り向いた彼女は、
状況を察すると再びそっぽを向いて歌を続けた。

僕は、たまらなく切なくなり、
彼女の声をすくい取るようにベースを奏で始めた。
僕の音色に合わせて、刻々と移ろい変わる
彼女の表情を思い浮かべながら。